[カテゴリー:日々是哲学]
フィヒテは、スピノザ哲学を唯物論の哲学とみなして批判するのですが、しかし前期(1793年から1800年、これはフィヒテがイエナにいた時期に相当します)には、観念論と唯物論の対立は深刻であり論争不可能であると考えています。
「これらの二つの体系はいずれも相手を直接に論駁することはできない。というのも、両者の争いは、それ以上は他から導出することのできない第一原理についての争いだからである。両者はいずれも、自分の原理だけを承認するときに、相手の原理を論駁する。いずれも相手のすべてを否定し、両者は、相互に理解しあい、相互に一致しうるようなどんな点をも共有しない。たとえある命題の語句について両者の意見が一致したように見えたとしても、両者は同じ語句を違った意味で受け取っているのである。」(GA I/4, 191, SW I, 429f. 日本語全集7巻、373)
これはクーンの言うパラダイムの共約不可能性の説明とそっくりではないでしょうか。パラダイムの共約不可能性は、通常は言明の共約不可能性として考えられているかもしれませんが、根本的には問いの共約不可能性です。何故なら、言明は問いに対する答えとして成立するからです(もちろんこれは、私の意見でフィヒテの意見ではありません)。では問いが共約不可能であるにもかかわらずそれが対立したり競合したりするのはなぜでしょうか。それはそれらの問いがより上位の問いを共有しているからです。共約不可能な二つの問いの直近の上位の問いがまた共約不可能であるとしても、上位の問いをさかのぼっていけば共通の問いに行き着くとおもいます。自然科学の場合には、最上位の問いは「自然はどうなっているのか?」という問いであり、それに答えるために様々な下位の問いが立てられるのであり、それを下っていくとき、すべての科学的な問いは、そのどこかに登場するはずです(このアイデアをさらに詳細に論じることは、いずれ別のカテゴリーで行いたいとおもいます)。
では、唯物論と観念論の対立は共通の上位の問いを持つのでしょうか。これらが対立・競合している限りは、共通の問いがあるはずです。しかし、この対立は自然哲学ないでの対立ではなく、哲学対立です。哲学の最上位の問いとは何でしょうか。この答えは、哲学によって異なります。
例えば、唯物論では「物自体とは何か?」であるかもしれませんし、観念論では「知性とは何か?」であるかもしれません。もしそうだとすると、この二つの哲学はなぜ競合するのでしょうか。それは、唯物論の最上位の問い「物自体とは何か?」に答えるために下位の問いを立て、それを下っていくなかに「知性とは何か?」が登場し、それと観念論の「知性とは何か?」の問いの意味が異なるからです。そもそも「知性」で指示しているものが異なるだろうと思われます。逆に、観念論の最上位の問い「知性とは何か?」に答えるために下位の問いを立て、それを下っていくなかに「物自体とは何か?」が登場し、それと唯物論の「物自体とは何か?」の問いの意味が異なるからです。
では、どうしたらよいのでしょうか。フィヒテは、この違いは、唯物論者と観念論者の「関心」の違いであると考えています。
「観念論者と独断論者の相違を生む究極的な根拠は、彼らの関心の相違なのである」(GA , SW I, 433, 全集七巻、三七六)
「人がどのような哲学を選ぶかは、彼がどのような人間であるかにかかっている」(GA , SW I, 434, 全集七巻、三七八)
前期フィヒテは、唯物論と観念論の共約不可能性の前で立ち止まるしかありませんでしたが、後期フィヒテになると少し変わってきます。